「CREATORS 100」は、Sony Startup Acceleration Program (以下SSAP)を立ち上げ、運営するソニー株式会社Startup Acceleration部門副部門長の小田島が、様々な業界で新たな時代を創り出している起業家・経営者を訪問するインタビュー連載企画です。「クリエイターをクリエイトする」ことをスローガンに掲げ、スタートアップの創出と事業運営を支援するSSAPの視点から、スタートアップにチャレンジしてきた起業家やクリエイターの起業ストーリーやフィロソフィーなどをお届けします。
第2回目にご登場いただくのは、月間で約1500万人が利用している日本最大のコスメ・美容サイト「@cosme(以下アットコスメ)」を運用する株式会社アイスタイル(以下アイスタイル)代表取締役社長 兼 CEOの吉松徹郎さん。前編では、アイデアを事業化させていった背景から、資金調達の奔走の末に迎えたターニングポイントまで、壮絶な起業ストーリーについてご紹介します。
化粧品に可能性を見いだし、3つの要素が繋がってスタートしたアットコスメ。
小田島:初めに、アットコスメのアイデアが生まれたきっかけをお聞かせください。
吉松:アイデアのきっかけとしては、大きく3つの要素があります。
まず1つ目は1999年3月、創業パートナーである山田メユミが、化粧品情報を提供するメールマガジンを配信したこと。メルマガポータル『まぐまぐ!』に「週間コスメ通信」というタイトルで発行登録を行ったところ、配信前にも関わらず一気に約500人以上の登録があったのです。女性のインターネット利用率が低いと言われた時代に、『まぐまぐ!』内で「コスメ」というキーワードで検索している人がこれだけいるのか、と強烈なインパクトを受けました。
小田島:アイデアを形成する1つの要素が、女性目線で得られたのですね。2つ目は?
吉松:2つ目は、“化粧品”の販売は“出版物”と同様の特性があると考え、「Eコマース業界に参入することができる」と思ったことです。
1999年当時は、ビジネス誌でも「Amazonは本当に黒字化するのか?」といった特集が組まれるほど、Eコマースに対して懐疑的な見方がありました。ただ、その中でも値引きが起きない商材であれば勝機があるかもしれないと思っていたのです。例えば出版物のようなコンテンツビジネスは、出版社が決めた定価で販売する再販制度があって目をつけていました。そして同じような商材を探していたところで、“化粧品”を見つけたのです。
小田島:なるほど。最後のポイントは何でしょうか?
吉松:3つ目は、「情報を蓄積して簡単に検索ができるしっかりとしたデータベースを構築していけば新しいサービスが成り立つ」と思い至ったことです。当時、私はアクセンチュア株式会社に勤めていて、直にデータベースに触れていました。まだインターネット回線も重く、電子掲示板がWebサービスの主流だった時代でしたが、データベースの構築がキーになると考えていました。
これらの3つの要素が自分の中でカチッと繋がり「いける!」と思ったのが、1999年5月のゴールデンウィークでした。
得たいものがあれば経験することが大切。迷うことなくアイスタイルを起業。
小田島:そのタイミングですぐに会社を辞めて起業されたのですか?
吉松:まずはサイトを構築しようと思いドメインをチェックしたら、「cosme.net」が空いていたので、「じゃあ事業計画書を書こう」ということで連休中にまとめました。当時勤めていた会社の上司に見せて「面白いね」と言っていただいたのですが、コンサルティング会社は自ら事業を行うのではなく、クライアントの事業に時間と知識を提供するビジネスのため、会社の中で実現させることは難しいということに。
当時、ちょうど6月に自分自身の結婚式が控えていたので、親から借りた結婚資金が目の前にありました。これはきっと神様が会社を作れと言っているのだなと(笑)。式後の新婚旅行はキャンセルして、その資金で7月に有限会社アイスタイルを登記してスタートさせました。
小田島:自分のお金を持ち出し独立することに葛藤はありませんでしたか?
吉松:全くありませんでした。「自分の力を試すには自分で会社を立ち上げた方が早い」と考えていましたので。また、そのときはリスクも圧倒的に少ないなと思っていましたね。もし準備に3年の時間と1,000万円の資金を掛けたとして、失敗したらそれがそのまま損失になりますが、当時の私の準備にかかるのは2週間という時間と目の前の300万円だけでしたから。自分にとってはリスクが一番低い状態で始めたに過ぎません。
小田島:事業化したときに得たかったものは何だったのでしょうか?
吉松:「経験」ですね。得たいことがあればまずは経験することが大事だと考えています。私自身のケースで言いますと、前職で3年間勤めたのですが、「そこからさらに3年、会社に残ってコンサルタントを続けること」と、「3年間、起業すること」、どちらの方がよりマーケットバリューが高いか、それは経験を積めるという点で、絶対に後者だったと思います。
サービスは軌道に乗らず苦戦。ネットバブルもはじけて資金も底をついた。
小田島:サービスの立ち上げで苦労した点についてお聞かせください。
吉松:1年目で一番苦労したのは、自分のイメージしていることを他人に理解してもらうことでした。「口コミサイト」と言っても、当時はamazonや食べログもなかった時代でしたから。その中で人を巻き込んでやっていくのは本当に大変でした。
小田島:最初は何人でスタートしていったのですか?
吉松:3人です。そこから、前職の同期などが「何をやっているの?」と気になって会社に顔を出してくれるようになり、その人たちをどんどん巻き込んでいって、仕事をお願いしていきました。ただお金はなかったですから、自転車とかプレイステーションとか、現物支給で手伝ってもらっていました(笑)。
小田島:1999年12月にアットコスメを立ち上げてすぐに軌道に乗っていきましたか?
吉松:いいえ、軌道に乗らず苦戦していました。1年目の資金調達が3,000万円だったのですが、すぐになくなりました。年間売上は90万円で、4,000万円の赤字。そのため2年目には3億円を調達しようと動いていきました。
小田島:無事に多額の出資を得ることができたのでしょうか?
吉松:2000年当時はネットバブルど真ん中と言われた時代でしたし、ネットビジネスをやっているプレーヤー自体も少なかったので、難なく3億円を調達できると思っていたのですが…、ネットバブルがはじけてしまったのです。株価も下がり、世の中は人々の生活を脅かす状況にまで陥っていきました。
小田島:バブルがはじけた後はとても厳しい状況でしたね。
吉松:会社のメンバーに給料を支払えない月が2ヶ月ほど続いたりもしました。ただ、そんなときでもみんなで「お金がないからと言って、ビジネスを辞める理由にはならない」という話をしていました。実際、家庭の事情があった一人を除き、社員は誰も辞めなかったですね。みんな手弁当で働いてくれていました。
訪れた大きなターニングポイント。今でもそれが、人生のベンチマーク。
小田島:資金調達ができていなくて、しかも赤字の状況。その状態からどのようなアクションを起こしたのでしょうか?
吉松:このタイミングで、ある大きなチャンスが訪れました。知人から、「アジアを中心としたファンドを立ち上げる人が九州にいるから話をしてみないか」と言われ、山田と一緒に訪問しました。指定の場所に着くと受付で、「時間を見ながら話すのは失礼になるのでここで時計を外してください」、「盗聴器が入っていてはいけないのでジャケットも脱いでください」との指示が。それらに従って受付から奥に進んでいくと、重厚感のある金庫室の丸くて大きな鉄の扉が視界に入り、さらにその奥から人影が現れました。
小田島:まるでドラマの1シーンようなお話ですね。その金庫室ではどういったやり取りがあったのですか?
吉松:「どんな事業をやっているの?」、「2人でやっているのか?」、「化粧品は儲かるの?」などといった質問を受け、それらに回答していく、といった禅問答のようなやりとりが続きました。時計がないから時間がわからず、窓もない金庫室の中だから、段々と状況が理解できないようになっていきました。
さらに時間が経過していき、さすがにこの人とはコミュニケーションが取れないなと思って席を立とうともしましたが、「この話がなくなると本当に会社が続かなくなる」という思いでずっと話しを続けていました。酸素が薄くなる度に「ピーッ、ピーッ」という警報音が鳴り、扉を開けて空気の入れ替えをするのですが、その間は誰も喋らない。そんな不思議な時間が延々と続いていきました。
小田島:聞いているこちらも不思議な気持ちになってきました(笑)。
吉松:そうでしょう? この話ができるだけでも会社を始めて良かったなと思います(笑)。そして、その後も時間ばかりが経過していき、もうダメかなと思ったときに先方から「分かった。いくら必要なの?」と。私が「1億円です」と回答すると、なんと小切手を出して、そこに税金を除いた“9,975万円”と記入して渡してくれたのです。驚きました。その小切手で、アイスタイルは生き残ることができたのです。ありがたいですね。
小田島:そこから会社が黒字化していったのでしょうか?
吉松:2年目の売上は1億1,000万で、約8,000万の赤字。3年目で2億2,000万を売り上げて黒字化に転じていきました。自分の中でも、この出資を受けたタイミングから、「ちゃんとビジネスを育てなければいけない」という意識に変わっていきましたね。
小田島:大きなターニングポイントとなったのですね。それにしても、とても印象深いお話でしたが、いまでもその当時のことを思い起こすことはありますか?
吉松:「いま目の前に27歳の青年が現れたとして、初めて会ったその日に事業計画書も見ないまま1億円の小切手を渡せるか?」ということが、私の人生にとっての“ベンチマーク”になっています。どうすればそれができる自分になれるのか。資産が100億、いや、1000億あればできるのか?でもきっとそういうことではないんですよね。あのとき出資してくださった方はすでに亡くなられていて、もう直接話をすることは叶いませんが、これからも、自分にそれを問いかけ続けると思います。
(後編につづく)