Sony Startup Acceleration Program(以下、SSAP)では、スタートアップから大企業の新規事業まで、さまざまなプロジェクトを支援しています。本連載では、新しい商品や技術、サービスアイデアの事業化を行う会社や起業家など、今新しい価値を創造している方々の活動をご紹介します。
今回は、病院や医師向けの人工知能技術(AI)関連医療機器を開発するアイリス株式会社(以下、アイリス)にSSAPのプロダクトデザインのサービスを提供した事例をご紹介します。
2022年12月、アイリスの感染症判定AI咽頭カメラが医療機関向けに販売を開始し、実際の医療現場でも数多く利用されています。またこのカメラは2023年度グッドデザイン賞にて、5,447件の応募の中から「グッドデザイン金賞(経済産業大臣賞)」と「グッドデザイン・ベスト100」をW受賞しました。このカメラの開発秘話を、アイリス株式会社 代表取締役社長 沖山 翔さんとプロダクトマネジメント担当の木野内 敬さん、SSAP デザイン担当 アクセラレーター(SSAPデザイナー)の清水 稔にインタビューしました。
日本初のAI搭載医療機器
――改めて、アイリスのミッションや事業内容を教えてください。
沖山さん:アイリスのミッションは「みんなで共創できる、ひらかれた医療をつくる。」で、医療の未来をテクノロジーの力でつくるべく、人工知能技術を用いた感染症判定用AI医療機器の開発や感染症データベースの構築など、幅広い事業を展開しています。
――沖山さんと木野内さんの、感染症判定AI咽頭カメラの開発にあたっての役割は?
沖山さん:私はアイリスの代表取締役社長で、感染症判定AI咽頭カメラの販売を開始するまでの数年間、初期の頃からデータ収集・AI開発、治験などに取り組んできました。
木野内さん:私は感染症判定AI咽頭カメラのプロダクトマネジメントを担当しており、SSAPにプロダクトデザインを支援いただくにあたり、清水さんとのコミュニケーションをメインで担当しました。
――販売が開始された感染症判定AI咽頭カメラとは、どのような医療機器ですか?
木野内:医師の目線で開発し、日本で初めて(※1)「新医療機器(※2)」として承認を取得したAI搭載医療機器です。咽頭(のど)の画像と問診情報等をAI解析し、感染症に特徴的な所見などを検出することで、感染症の診断補助に用いることが可能です。
感染症判定AI咽頭カメラのAIアルゴリズムは、のべ100以上の医療機関、10,000人以上の患者の皆様のご協力のもと収集された、50万枚以上の咽頭画像データベースを元に開発されています(※3)。また、AI解析に適した咽頭画像を撮影するための専用カメラを自社で独自に設計・開発しており、口腔内・咽頭をクリアに撮影します。
量産を見据えた上で追及したユーザビリティ
――SSAPにプロダクトデザインの支援を依頼した背景を教えてください。
沖山さん:感染症判定AI咽頭カメラを開発しローンチするためには、ハードウェア、ソフトウェア、AI、医学、法規制、知財などさまざまな知識が必要で、その上で膨大な量の情報を取りまとめる必要がありました。その過程はまさに正二十面体を塗りつぶしていくような感じで、我々だけでは経験が乏しく作り込めない部分は補完していただく必要がありました。
また感染症判定AI咽頭カメラのお客様は医師です。そのため医師のニーズを満たす機器にする必要がありますが、ニーズと一言に言っても言語化されていない要求もありました。これらの課題を解決し量産を見据えた開発を進めるため、ものづくりのノウハウをお持ちのSSAPに支援を依頼しました。
――清水さんは、SSAPのデザイナーとしてどのような支援を行いましたか?
清水:感染症判定AI咽頭カメラの量産を見据えたプロダクトデザインを行いました。このカメラの研究開発は充分に行われておりました。私の役割はソニーの量産経験で培った機構設計、金型構造の知見やノウハウを量産デザインへ反映することです。
量産のためには再現性を持った機構設計、金型設計や要素検討が必要で、初期段階から設計者とデザイナーが密にコミュニケーションを取り、デザインの希望と実現可能性のバランスを取る必要があります。
――支援の過程で工夫したポイントは?
清水:沖山さんも仰っている通り、このカメラを使用するお客様は医師の方々です。医師のユーザビリティを考察して特に以下3つのポイントにこだわりデザインをしています。
1.医師の操作視線とオペレーションをデザイン:ストレートライン構造へのこだわり
医師と患者の咽頭の間に何が存在するかを考慮しました。
このカメラの先端にはカメラレンズ、鏡筒、撮影のシャッターボタン、基板や電池が入っているグリップ部、操作と確認を行うLCD(液晶ディスプレイ)があります。患者の咽頭と医師の目、この間に存在するデザインエレメントを最もユーザーフレンドリーに設計された医療機器にしたいという思いで下記の絵を示し、ユーザビリティーコンセプトとしました。プロジェクトの早い段階でデザインの方向性を可視化し、開発メンバーで共通認識をつくることもSSAPのデザインの特徴です。
2.衛生面に配慮した汚れにくい構造:Seamless Designへのこだわり
通常、プロダクト本体が複数のキャビネットで構成されるとその合わせ目が溝となり汚れが溜まりやすくなります。またクリーニングをしても溝奥の汚れが取れない場合もあります。しかしこのカメラの本体は1つのキャビネットで出来ており、合わせ目となる溝がありません。これは汚れに強く、クリーニングし易いデザインです。
また本体を1つのキャビネットでつくることには強くこだわりました。長い筒状の本体を1つのキャビネットで金型の抜き角度なしで製造するのは本来大変なことなのですが、設計者との内部構造と本体アッセンブリーの方法、金型メーカーとの金型構造について綿密な協業をさせていただき一丸になれたことでシームレスなデザインを実現できました。
加えて、カメラ本体の表面は細かなシボ加工がされています。シボがあることで手指に抵抗があり持ちやすくなります。またシボが本体への傷付きづらさに作用してくれます。ただ、シボは細かな凹凸、「山」と「谷」の連続ですので汚れが谷に着きやすくなる性質もあります。仮に汚れが「谷」に付着した際にも汚れを落としやすいシボ形状であることが重要です。
このように、プロダクトの製造にあたっての諸条件をクリアしつつ、汚れにくい構造・テクスチャーの実現は私がソニーで培った量産を見据えたデザイン経験が活かせました。
3.診察室で安心できる存在:Stable Designへのこだわり
カメラは使われていない時どうあるべきか?使われていない時のユーザビリティもカタチにしました。カメラの先端部のカメラレンズ部は口腔に入るので机面に直に触れない、触れそうな位置で置かれないことが必要です。その解として表示部を下に立てて置くスタイルをデザインしました。
立てて置かれる時の安定感の検証。表示部を下に机面に置かれても、LCD表示部周辺の額縁部が凸形状で、スタンドの為の足の役割を果たし、表示が傷付かない工夫もあります。医師は咽頭撮影が終われば、机にカメラを立てて置けます。衛生的であり、省スペースでもあります。
このカメラはバッテリー駆動であり、充電が必要です。診察室の卓上でもカメラスタンドに置かれている時間が長いと仮説を立て、省スペースで安定した佇まいを追求しています。カメラスタンド上でカメラは15度後ろに傾き設置されます。カメラスタンドにはカメラを支える背もたれが延びています。実はカメラスタンドの背もたれとカメラは接していません。15度後ろに傾き、それを背もたれで支えている見え方が安定した佇まいになっています。カメラスタンドと本体の端子接点は本体を載せるだけでマグネットにより引き合い勘合します。カメラスタンドには重りが内蔵され安定して使用出来る工夫がされています。これによりカメラは医師の診察環境において省スペースで機能的な佇まいを実現できました。
3つのポイント以外にも、シャッターボタンの周りに凹面を作ることでボタンを不意に押すことを防いだり、カメラ部のカバーの紛失防止のためにカメラスタンドに置けるようにしたりなど、細部にもこだわりました。
――量産を見据えて再現性を持ちつつ、ユーザビリティにも考慮したのですね。
清水:他にも医療機器であるからこそ、凛とした落ち着きのある佇まいにもこだわりました。
モールド成形品の宿命として金型の「抜き角度」があります。これは金型からの離剥に必要です。カメラの成型キャビにはこの抜き角度がありません。キャビに抜き角度が付くと平行な面と稜線がなくなり、落ち着きのない佇まいになってしまいます。カメラは患者さんの口腔を撮影する医療機器です。真っ直ぐで落ち着き、凛としプロダクトになるためにこだわりました。コア側の長いスライドは機構部品、デバイスをパッケージ化することで実現しています。これは、機構設計者、金型設計者との協業で実現しました。
―――短期間でデザイン開発を行ったと聞いています。量産へのデザインを行うにあたっての苦労はありましたか。
木野内さん:デザインで本当にプロダクトが良くなるのかの不安は、どの会社でもあると思います。私自身は、改めて、良くなると確信しておりますし、日本のグッドデザイン賞でも、その年のベスト20である「グッドデザイン金賞(経済産業大臣賞)」を受賞でき、本当に光栄に思っております。
量産を前提に考えるという面もそうですが、利用シーンを考えた上での細かな気遣いの積み上げは、豊富な量産デザイン経験をもつSSAPのデザイナーだから出来ることだと思います。企画とデザイナーは漫画家と編集者のようなものかもしれないけれど、SSAPにはデザイナーだけではない商品企画目線もあるのは、魅力です。
清水:木野内さんは前職で「伝説の企画マン」として有名でした(笑)。そのような方とのデザイン開発はエキサイティングで楽しい時間でした。
アイリス社のみなさまは長期間に渡り感染症判定AI咽頭カメラの開発を行い、膨大な情報と知見をお持ちです。ハードウェアへのフォルムファクターの考察も数々検証されています。それを短期間で私にインプットし、デザインをアイリス社の理想に導くために、木野内さんとは漫画家と編集者のような関係でやり取りさせていただき、企画×デザインのアイデアの相乗効果が発揮できたプロジェクトでした。
医療分野の「10年後の当たり前」をつくる
――SSAPによるプロダクトデザインで、役立った点はございますか?
沖山さん:SSAPには、デザイン単体での支援というよりは、製作工程やUX設計などまでカバーしていただけました。お客様である医師のニーズを深堀しながら、それを機能やデザインに落とし込んでいく作業は、SSAPがいたからこそ実現できたと思います。
私はものづくりに対峙したことが無かったので、個別の機能は思いついてもそれらを繋ぐための知識やノウハウがありませんでした。それらを補完していただきつつ原点の機能から丁寧に開発することが最終的に最短距離だったのだと、感染症判定AI咽頭カメラの開発を通じて学びました。
――最後に、今後の感染症判定AI咽頭カメラの展開にかける想いを教えてください!
沖山さん:私はこれまで救急医として、幅広い病気の患者さんと向き合ってきました。しかし、自分には救えなかった患者さんがいました。その病気の専門医師なら救えたかもしれない患者でした。「現場で感じた医療課題を解決したい。」という想いでアイリスを創業し、アイリスの事業の1つとして感染症判定AI咽頭カメラが誕生しました。
患者さんが患者さんへ感染症判定AI咽頭カメラの良さを伝える。診察を受けた子どもがAI咽頭カメラのことを母親に話し、「お母さんも子どものころAI咽頭カメラで診察を受けたのよ」と会話になる。診察を受ける患者さんによってデータが蓄積されAI医療の発展とAI咽頭カメラの進化が生まれる。AI医療は決して冷たいものではなく、診察を受ける一人一人がその発展に貢献している。そう実感いただける存在に感染症判定AI咽頭カメラがなると信じています。
木野内さん:私は「人々のライフスタイルを変えたい」という想いで、アイリスのプロダクトマネジメントに携わっています。アイリスが提供するさまざまな事業を通じて、診察のスタイルが変わっていくと思っています。私たちは10年後の「当たり前」を作っていて、感染症判定AI咽頭カメラもその1つになるように、今後の展開を進めたいと思います。
清水:私自身のこれまでのデザイン経験を最大限に活かし、設計者とベクトルを合わせた協業を行うことで、アイデアを可視化し、無事に量産を見据えたプロダクトを完成させることができました。量産技術とのバランスを取りながら医療機器に求められるプロダクトデザインを突き詰めたチャレンジでした。
※本記事の内容は2023年10月時点のものです。